宣伝媒体掲載コメント
戯曲『エリカによろしく』について
執筆依頼を受けたのは京都へ向かう車内でした。その事と、登場人物たちが常に移動し続けている事はきっと深く繋がっています。
もし、その中にいる人間には一切抵抗する事のできない「運命」が存在するなら、それはきっと螺旋の形だと想像して書きました。同じような所には戻ってくるけど、同じ所には戻れない。それは悲しみの尽きない源でもあり、清々しさでもあると思うのです。
魚田まさや
『エリカによろしく』の上演について
スムーズに生きるには、振る舞いの最適化が求められる。「こういう時はこう」と考えずとも自動的に自然に実行できたら、正直とても楽だ。考えたり判断したりすることは時にとても面倒だし疲れる。
しかし時折、その楽をするための自動処理が苦しくなる。それらの自動で生成されるもの、または抵抗する中で顔を覗かせるものに注意を払いながら、3年振りの上演に挑みたい。
福井歩
当日パンフレット掲載コメント
戯曲について
二人芝居を書くと、二人というシチュエーションだけが持っている、独特の力のはたらきを感じます。お互いに相手をまじまじと見ることができたり、逆にそれを避けようとするあまり少しユーモラスにも見える空回りを始めたり。結果の善悪を問わず、二人の人間を引き寄せあう引力のようなものが生じるのです。(ここに三人目が現れると、不思議なことに途端に引力は消えて社会が現れるのであった)
この戯曲は、登場人物の個と同時に、二人の間を満たすそうした力に最大限耳を澄ませて書きました。現実の社会に無数の重たく冷たい問題が横たわる中、この作品はごくプライベートな領域をテーマにしています。最も身近な人間同士の関係にメランコリックな雰囲気とユーモアと、ほのかなポジティブさを感じていただけたなら、作家としてこれ以上の幸せはありません。この度はご来場いただきまして、誠にありがとうございます。
魚田まさや
上演について
今回の公演のきっかけは、フェルナンド・ペソアと、それについて書かれた文章で誤訳を見つけたことだ。「pessoa」は「人、人間、人格」という意味だが、その文章では「誰でもない」と訳していた。それではヨーロッパポルトガル語で「誰でもない」は何になるのかと思い、辞書で確認すると「ninguém(ニンゲィン)」(英語のNobodyに近い)であった。日本語の「ニンゲン」がポルトガル語で「誰でもない」という意味なる、という解釈が乱暴であることは重々承知だが、偶然にしては面白いし、出来すぎている。またペソアに魅了された人々は多数いるのだが、一方で研究者・翻訳者の数多くが「彼について知っていることはそう多くない」と書き、ポルトガル語の専門家ではないので、イタリア語やフランス版を翻訳している。このあちこちを経由して、直接たどり着けない現象を引き起こしているペソア自体が面白い。またペソアが生前、文筆業とは別に商業翻訳で生計を立てていたことにも関心があった。このようなとりとめのない関心を伝えて魚田さんに執筆を依頼したところ、戯曲『エリカによろしく』を完成させてくれた。
この戯曲で今回稽古をしていて、異なるもの同士がひとつに繋がる瞬間がたびたびあった。それは「Aでありながら、Aでない」というより、「Aであり、Bであろうとする」状態だった。この状態、正確にはAとBをつなげているなにか自体は、意味付けに強く抵抗している。私はこれを、2つのものを繋げながら、身を捩って抵抗する〈捻れ〉だと感じた。
上演チラシに書いた「楽をするための自動処理が苦しくなる」というのは、この〈捻れ〉が関係しているのかもしれない。もちろん、生活の中で「Aであり、Bであろうとする」ことが苦しいかどうかは、個人差がある。しかし上演でAとBの間に働く力を現前させることで、生活の中でも新たな視野が拓けるのではないか、と考えている。
福井歩
イマジナリーピーポー イン トーキョー
国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2020 TPAM フリンジ 参加作品
2020/02/14-16
新宿眼科画廊 スペースO
構成/演出:福井歩
出演: 野中知樹、平山瑠璃、米倉若葉
舞台写真:瀬崎元嵩
宣伝媒体掲載コメント
『イマジナリーピーポー イン トーキョー』の上演について
ひとりで都市を歩いていると、だんだん身体が周囲に馴染んでいき、「私」が消えたような、透明人間になったような感覚を抱く。透明人間は周囲の人から見えず、また異なる存在であるため、両者の間には隔たりがある。それをいいことに、透明人間は都市に溶け込み、周囲の人を観察している。透明人間は周囲の人と関係を持たない、または定型化され、意識されないような関係性しか持たない。
どうでもいい存在になることは、他人が求めてくる役割から解放されるということだ。役に立たなければという責任感やプレッシャー、性別や職種などの偏見から逃走し、自由になる。自分に掛かっている力を逃し、気の向くままに流れてみる。都市を目的もなく歩き、「私」は無用なものになる。
それが世間の要求に対するささやかな抵抗になる。これは世の中に逆行する、ということではない。ぼーっと都市を歩き回ることで、絶え間ないスピードで進む社会とは異なる流れが生じる。このような抵抗の先に何があるのか。今回の60分の上演で考えていきたい。
当日パンフレット掲載コメント
『イマジナリーピーポー イン トーキョー』の上演について
『イマジナリーピーポー イン トーキョー』の後半の稽古で、「物理的な距離とイマジナリーな距離」という言葉が出てきた。主に俳優間の距離に対して用いられ、「物理的な距離」は目の前にいる俳優との実際の距離、「イマジナリーな距離」はテキスト内における人物たちの距離を指していた。今回は東京駅付近を中心とした東京を歩き回るテキストに対し、空間がどう考えても狭いため、「物理的な距離」と「イマジナリーな距離」はほとんど一致することがなかった。例えば「イマジナリーな距離」だと50mくらい遠くにいるが、「実際の距離」だと2m程度取るのが限界、といった具合である。
「イマジナリーな距離」で対象を見つめる俳優は、虚空を見ている。当然そこには何もない。「何もない」ところに焦点を合わせていると、私たちはそこに何か意味づけを試みる。しかし具体的なものはそこにはなく、俳優の視線の移動とともに「何もない」は別の何かに変化する。
このようにまだ価値や意味が定まりきっていない何かに焦点を合わせていくことで、今までとは異なる身体感覚が開け、日常をサバイブする術を摑むことができるのではないかと考えている。
宣伝媒体掲載コメント
『左ききの女』とその上演について
『左ききの女』はペーター・ハントケ(Peter Handke)が1976年に執筆した小説であり、1978年には作者自身によって映画化された。この作品は、彼の母をモデルに書かれたと考えらている。
ある行動に対して「なぜそうした/そうする/そうしたいのか」という理由は、行動の結果から考えられた後付けである。理由づけることで、ほかの理由がある可能性を切り捨てて、私たちは日常を送っている。今回の上演では、その言語化されない/されなかったものについて思考してみる。
ある冬の朝、女は夫と離れて暮らすことを思いつく。女は仕事を再開し、息子と暮らす。
以上が作品のあらすじである。物語は登場人物たちの行動によって、淡々と描写される。なぜそうしたのか、という理由は語られない。原作に書かれていないのだから、俳優は登場人物の行動の理由を知ることなく、舞台上を動き、演じる。
普段の生活で私たちは、行動に理由づけすることを往々にして迫られる。言語化されないものは、無意味で無価値な、理解しがたいものなのかもしれない。しかしこの作品は、理由づけされない行動によって構成される。この意味のなさが、〈ありえた/ありえるかもしれない生〉を出現させ、生き方が多様化する現代社会を生き抜く上での手がかりになるのではないか、と考えている。
当日パンフレット掲載コメント
『左ききの女』の創作と上演について
本公演の宣伝チラシに、次のような文章を書いた。
「俳優は登場人物の行動の理由を知ることなく、舞台上を動き、演じる。」
こう書いた手前、行動の結果から逆算して演技プランや演出を考えるのではなく、ひたすらシーンの稽古を反復し、動きを作り、タイミングを決めていった。方向性はあるものの、ゴールを具体的に定めなかったためか、どんどん遠くに移動していくように、〈俳優/登場人物〉たちの動きは変わっていった。
動きの変化によって、上演テキストは第6稿までつくられた。しかしシーンをカットしたり、順番を入れ替えたりはしたものの、セリフはほぼ小説のままだ。作者のペーター・ハントケは出来事に対し慎重に言葉を置いていく作家であり、何気ない会話でも変更することが難しい。何気ない会話に、強度があるのだ。
俳優たちとも話したが、言葉の意味を理解し、それを演技で再現することは、この強度を弱めることになりそうだった。言葉の意味そのものの強度を信じ、過剰に脚色することなく、空間に言葉を置くように発話する。この方法は一歩間違えると「棒読みのメソッド」として、登場人物と俳優の位置関係を固定してしまう。両者の関係を流動的にすること。それが私が俳優たちに求めていたことだとわかったのは、最後の通し稽古のあとだった。
この流動的な関係が、上演にどう作用するのか。それに関しては、上演後に適切な言葉を見つけていければと考えている。
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